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はじめに 功成り名を遂げた人には、日本経済新聞の「私の履歴書」に「思い出」を語る機会があるが、私の場合はそういう事は先ずあり得ないので、記憶の薄れないうちにこれ迄のことを書き残し、たまたま興味を持ってくれた人がいれば、ウェブ上で読んで貰えるようにしようと考えた。その時には夢中だったことも、後で振り返ると寒々とした感があるが、それでも多少は波乱に満ちたビジネスキャリアだったと思う。


生い立ちと学生時代 (1939 – 1962年) 私は、兄一人、姉二人の末子として、1939年に東京で生まれた。 父は銀行員だった。先祖は北条家の家老格だったが、秀吉の小田原攻めを目前にして、殿様の子供を一人預かって田舎に身を隠し、15代にわたる家系図だけを守って、そのまま百姓として息を潜めていたらしい。15代目の当主であった祖父が米相場に失敗して一家は貧窮したが、四人兄弟の中で、父だけが辛うじて大学を出して貰えたと言う。 銀行で仕事をしている時に関東大震災にあい、周りで多くの人達が死んでいる中でも何とか生き延びた事から、「人並み以上の強運」を自認していた。50歳代の終りに胃潰瘍を患い、大きな手術をしたが、結局99歳まで生きた。
生涯を通じて「人の悪口を言ったことのない人格者」と評されていた様だが、本人はそのことを喜んではいなかった。「自分は本当はもっと悪い人間だった」というのが口癖だった。 母は勝気な人だった。

生家は、東京の下町、根岸、坂本界隈で青物商を営んでいたと言う。江戸城に日本で初めて外来のトマトを納めたと聞いたことがあるので、相当名の売れた商家だったのだろう。その頃の商家の娘は、未だに江戸時代の気風を残し、歌舞伎役者などにうつつを抜かしているのが普通だったらしいが、母は両親を説得して高等女学校にまで行かせて貰ったという。その為に、「変わり者」という意味で、「カワちゃん」という仇名をつけられたらしい。 私が生まれたのは東京の郊外だったが、父の転勤で、生後3ヶ月で大阪に移り住み、成人するまで主として大阪の郊外に住んだ。その間に、一時期東京に住んだこともあったが、空襲が激しくなったので、栃木県に疎開した。そのおかげで、ほんのわずかの差で東京大空襲を免れた。

5歳の時に、疎開先で、大人達と一緒に玉音放送を聞いた。 高等女学校で良妻賢母教育を受けていた母は、日本が戦争に負ければ、当然子供を刺し殺し、自分も自決せねばならないのだろうと思っていたらしいが、結局何事も起こらずに、戦後の日本が始まった。 まともな食べ物はなく、常に腹をすかしていた。米国の援助物資だった家畜の飼料で作ったパンと、ふかしたジャガイモ、サツマイモが昼食の定番だった。風呂などというものはなく、母が湯に浸した手拭いで身体を拭いてくれるのが最大の楽しみだった。蚤に食われたあとが方々で膿んで酷い状態だったが、包帯とか絆創膏などというものはないので、古い浴衣を切り刻んだもので代用していた。今の時代から見れば「極貧以下の生活」だったと思う。 「シンチュウグン(米兵)に『チョコレート・ギブミー』というと何か呉れるぞ」と聞いていたので、一所懸命そう叫んでみたが、私自身は結局何も貰えなかった。そこでは「会社の立場」と「自分自身の信条(心情)」との相克に深く悩むことになった。「NTTの組織防衛」に組みすることは、伊藤忠の立場としては当然の義務だったから、私も実際にそうしたが、自分の一生を委ねる選択としては気が進まず、内心は鬱々としていた。 この事には別の側面もあった。副会長を最後に伊藤忠から離れた瀬島龍三さんは、伊藤忠の中でもなお隠然たる影響力を持っていたが、彼はNTTの取締役にもなっており、伊藤忠とNTTを結びつけることに熱心だった。従って、伊藤忠の中にとどまる限りは、事の如何を問わず、NTTと事を構えることなどは不可能と言ってもよいと思われた。 しかし、大袈裟に言えば、「こんなことをしていては、日本の情報通信産業は米国などに比べて大きく後れを取る」というのが、その当時からの私の強い考えであり、その後のどんな時でもその考えが変わることはなかった。NTTには親しい人が沢山いたし、そういう人達は全て素晴らしい人達ばかりだったが、「組織になると、何故か極端に閉鎖的で保守的になる」と私は思っていた。 色々なことが重なり、次第に決意が固まっていった。「そのまま伊藤忠グループの中にとどまるという選択肢は、どう考えてみてもない」と思うに至る一方で、「人生は一度しかない。もう一度ベンチャーで勝負して、自分の基本的な考えが正しかったことを証明してみたい」という高揚した気持もあった。

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